くじらもち
くじら餅の起こりについては諸説ありますが、江戸時代の宝永年間に3代新庄藩主戸沢正庸の時代に兵糧食として作られた物が始まりとされています。また、くじらもちは朝鮮通信使の接待の際に出された由緒あるお菓子でもあります。
新庄市史によると、桃の節句に各農家で作っていたもので、バリエーションとして黒糖・白砂糖・味噌・醤油味があります。
桃の節句のお雛様にはくじらもち・しんこ餅(餡の入った丸い餅)・のり巻き寿司に生鰊二尾を供えました。
製法は、餅にクルミなどを入れ、木枠を置いたせいろで蒸かして作ります。
くじらもちという名前ではありますが、中に鯨が入っているわけではありません。名前の由来にも諸説ありますが、昔はサイズが今のものより大きく、その大きさから鯨を連想して名前になったという説、保存が効き久しく持つ良い餅で「久持良餅」となったという説もあります。
くじらもちは元々各家庭の味でしたが、明治時代創業した南本町にある深田菓子舗がくじらもちを商品として初めて出されて以来、今日までに新庄市内の各菓子店などが製造販売しています。
【参考資料】山形県HPメールマガジン「今山形から…」第276号おらほの自慢 くじらもちより。
隠明寺凧コレクション
新庄ふるさと歴史センターの大凧
隠明寺凧は旧新庄藩士隠明寺勇象(1844~1915年)が明治の初めに士族の内職として版木を彫りこれで刷った凧を販売しました。
勇象の没後隠明寺凧は途絶えていましたが、昭和40年頃に版木が発見されその後「隠明寺凧保存会」が組織され隠明寺凧を復元しました。昭和52年には隠明寺凧の版木(12枚30面)が山形県指定有形民俗文化財となりました。
版木の大きさはさまざまで主に桜の木を使い、絵柄は神功皇后・金太郎・福助・酒吞童子等があり数ある絵柄の中で特に有名なのは般若です。またの名を「川口般若」とも呼ばれ、このような言い伝えがあります。
昔、新庄藩に川口という名の侍がいました。息子は凛々しく成長し息子に花のように美しい嫁を迎え、姑は息子にも増して嫁をかわいがり、人もうらやむほどの幸せな日々を送っていました。
しかし些細なことで嫁と姑が仲違いしてしまいます。それ以来姑は事あるごとには嫁につらく当たるようになりました。
嫁は耐えに耐えていましたが姑はさらに強く当たるようになり、ついには夜な夜な般若のお面をつけ嫁の寝床を襲うようになってしまいました。
とある夜、姑は般若の面を外そうとするがどうしても外れない、しまいには顔そのものが鬼の顔になってしまいました。
嫁はこれは仏の罰に違いない、この上は仏にすがり罪を滅ぼすしかないとして仏間に姑を誘い、共に一心に般若心経を唱えた結果、気付いたら般若の面は取れ元の優しい姑の顔に戻りました。その後、嫁と姑は睦まじく過ごしたといいます。
現在、JR新庄駅には隠明寺凧の桃太郎の大凧を飾っています。
初代弥兵衛から五代弥瓶までの東山焼コレクション
(なお、初代から三代までの作品の一部が市指定有形民俗文化財となっています)
六代弥瓶氏・七代涌井大介氏 作品
新庄東山焼は、十代藩主正令の時代天保十二年(1841年)に越後出身の陶工涌井弥兵衛(享和元年(1851年)~明治5年(1872年)が新庄藩の瓦師として召抱えられ、新庄藩の家臣の勧めで東山の地に窯を開いたのが始まりです。
瓦焼きの余暇に瀬戸焼を始めたものが好評を得て、やがて庄内・村山にも移出されるようになり、新庄藩国産品の一つになりました。
この功により藩より東山の地一帯・作業小屋・居宅・扶持米を賜りました。
昭和の初期には民芸運動の創始者柳宗悦に「土鍋としては日本中のものでもっともうつくしいものでしょうか。」と著書の中で記されるほど注目されました。
新庄東山焼は七代に渡り現在も焼き続けています。
新庄亀綾織の織機
新庄亀綾織は細い絹糸で織り、大変きめ細やかな作業が必要なため、10センチメートル織り上げるのに名人でも丸一日かかかってしまうほど手間がかかる織物です。明治末期に生産が途絶え“幻の織物”と呼ばれていたこともありました。
織り目の模様が20種類もあり、織り上げてから染色するためしっとりとした風合いと輝く光沢を特徴としています。
気品あふれる美しい製品が数多くあり、お土産・贈り物に喜ばれています。
新庄亀綾織のその始まりは新庄藩9代藩主正胤が文政13年(1830年)に上野国(現群馬県)の織師、長内三十郎が新庄藩士北条喜兵衛に見いだされ水車式の糸返し機を作り藩士の女性たちに絹織物の技術を教え、亀綾織と呼ばれる亀甲紋を織りだしました。
新庄藩では国産方を文政元年より設け養蚕・織物・焼物などを奨励。特に絹織り物の生産に力を入れ上野国より桐生の吉十郎(長内三十郎が桐生の織師だが吉十郎と三十郎が同一人物かは不明)、館林の初五郎、佐野の将治らの織師を招きました。
天保年間、藩士の女性たちの内職として新庄藩は機織りを奨励し嘉永年間では藩士常井主水が機業掛に任ぜられ生産により一層力を入れました。
藩士の女性たちによって織られた亀綾織は江戸藩邸を通じて各地に移出され時には桐生・足利と並ぶほどと言われました。
長内三十郎は亀綾織を発達させるも天保9年(1838年)仙台藩の藩札偽造に関わったとして領外追放となりました。その後、新庄亀綾織は戊辰戦争時に道具がすべて焼け、明治になって工場の再興・閉鎖を繰り返し、途絶えてしまいます。
戦後に「最上モデル定住圏における地域特産品の開発調査」で新庄亀綾織が選定され、調査部会活動が開始されました。
新庄市では昭和52年(1982年)に亀綾織の復元を県工業技術センター置賜試験所へ委託し、紗綾形、八つ橋織など9種類の復元に成功。
昭和60年(1985年)新庄亀綾織伝承協会が発足し、その後間もなくして置賜試験場宮下専門員を講師に招き、亀綾織についての学習運動を始めました。
翌年には 実技学習活動が実を結び、亀綾織の基本といわれる紗綾形の復元に成功したのです。
現在では「新庄亀綾織」のブランドを確立し、併せて先染めの手機絹綾織物である「新庄綾織」と西陣織の技術を用いた手機絹平織物である「最上新庄織」の2つのブランドも確立させました。
【参考資料】最上地域史研究会発行最上第10号最上人物事典新庄市HP新庄亀綾織紹介ページ新庄亀綾織伝承協会HPより。