政盛公の花押入り書状(市指定有形文化財)
新庄藩祖 戸沢政盛(まさもり)(藩主在籍26年)元和8年~慶安元年(1622~1648年)
元和8年(1622)、政盛は出羽国最上郡・村山郡のうち、6万石(のちに6万8200石)の地を賜って国替えを命ぜられた。
従来この地方一帯を有していた山形藩主最上氏がお家騒動によって倒れ、その75万石の地が、徳川家の重臣、鳥居氏(24万石・山形)、酒井氏(14万石・鶴岡)及び両氏と縁の深い戸沢氏(6万石・新庄)、徳川家の一族松平氏(4万石・上山)、その他に分与された。
戸沢政盛が当地方に入ったのは元和9年(1623)であった。
彼は初め真室城(鮭延城)に入ったが、手狭だったため新庄城を築城し、寛永2年(1625)ここに入った。
新庄領の範囲は、現在の最上地方一円と、村山市・大石田町・河北町の各一部最上川左岸の地方一帯であった。
政盛は新庄入府と同時に、城郭の拡張、城下町建設、家臣団の編成、領内支配機構の整備、領内総検地の実施、新田開発、鉱山開発の諸政策を推進、さらに領内の年貢米、物産を上方市場に移出して藩財政の確立を図った。
慶安元年(1648)閏正月22日、ついに江戸桜田の藩邸に没した(東京都港区南麻布)。享年64歳。
遺骸は三田常林寺(港区三田南寺町)に葬られ二人の家臣が殉死した。
新庄の瑞雲院の戸沢家墓所においては、政盛の墓は第1号棟に葬られている。
二代 正誠(まさのぶ) (藩主在籍60年)慶安3年~宝永7年(1650~1710年)
新庄藩二代藩主正誠は、寛永17年(1640)、新庄西町(新庄城の西裏側)の藩士楢岡左馬助邸で生まれた。幼名は千代鶴。
千代鶴が二代藩主の座につきえたのは全くの幸運だった。政盛には側室との間に4人の子どもがおり、うち男子は千代鶴と半平(藩士戸沢長九郎の姉との間にできた子)のみであった。
この半平が寛永9年(1628)9歳にして死去したので、男子は千代鶴のみとなった。
しかし、政盛はこれを幕府に届け出ておらず実は、彼は自分の跡を継ぐ男子無しとして、側室天慶院との間にできた宮子に、妻(正室 真室御前)の実家山形藩主鳥居家から養子を迎え、これに跡を継がせることを画策した。
迎えられた養子は山形城主鳥居忠政の次男定盛だが、彼は養父政盛に先立って寛永18年(1641)34歳で死去。
政盛はなおも定盛と宮子との間にできた娘風子に婿養子を迎えて後を継がせようとしたが、この風子も慶安元年(1648)22歳で死去した。
政盛は、それでも千代鶴を後継者とは認めず、重病に陥った後も後継者を立てなかった。
政盛亡き後、家臣らは画策して千代鶴の家督相続を幕府に認めさせた。
幕府から正誠の家督相続の領知状が出されたのは慶安3年(1650)のことだった。政盛が亡くなってすでに3年が経過していた。
家督相続後は、正誠は意外の幸運に恵まれた。
宝永7年(1710)、71歳で隠居するまで、実に60年の長きにわたって藩主の座にあり、更に隠居後も藩政に隠然たる勢力を振るい、都合70年にわたって藩政に君臨した。
彼はその初政において戸沢家の内紛片岡騒動を処断して、藩主の地位を確立。また、新庄城及び城下町の拡張を断行、さらに領内総検地等の諸政策に手腕を振るい、多数の学者・武芸者・文人・相撲取り・能役者まで家臣の列に加え、一流の文治政治を展開した。
新庄藩政は、この時期の政策の推進によって確立されたといってよい。
正誠時代、新庄藩は全盛期を迎え、領内人口が藩政時代全期を通してピークに達し、年貢収納高も最高額を示した。彼の治世は後に彼の戒名に因んで、「香雲寺様時代」と呼ばれ、彼の専制ぶりを語るさまざまな伝説が今に語られている。
「戸沢家普」によれば、正誠には9人の子ども(男5女4)があった。男子の2人はいずれも早世、また他の男子2人も早世し、側室貞鏡院との間に生まれた政武のみが無事成長した。
正誠はこの政武に望みを託し溺愛したが、政武も不幸にして貞享2年(1685年)わずか9歳にして病死した。正誠の嘆きは大きく食事が一切喉を通らなかったという有様であった。
政武は当時新庄北郊大田村にあった万年寺に葬られた。同寺は翌3年、新庄市西郊上西山に移り、桂嶽寺と改称した。これに伴って政武の墓も西山に移され、現在に至る。
貞享3年(1686)、正誠は家臣楢岡兵衛門の子正庸(幼名弥五郎 23歳)を養子に迎えた。
この折、正誠が正庸に申し渡した覚書が『古老覚書』に記されている。
そこには「その方を養子に迎えるのは、戸沢家の領地を守るためだから、正庸に子ができても決して分地してはならぬ、もし自分(正誠)に子どもができたら正庸の子として養育し、15歳になったら家督を譲れ」等、極めて厳しい内容が記されていた。
宝永6年(1709)、正誠は譜代大名に列せられた。
父政盛は譜代だったのに、正誠の家督が幼少との理由で外様におとされていたのを無念として、幕府要路に懇願し回復したものであった(願譜代)。
享保7年(1722)、正誠は常盤丁別邸で波乱の生涯を閉じた。享年83歳。
遺骸は西山桂嶽寺境内、愛児政武の墓の上手に葬られた。
三代 正庸(まさつね)(藩主在籍27年) 宝永7年~元文2年(1710~1737)
宝永7年(1710)、正庸は二代正誠隠居のあとを受けて戸沢家を継いだ(46歳)。
当時、新庄藩財政は極度にひっ迫し、農村は疲弊し、藩体制の基礎は揺らぎ始めていた。
この危機に対し、正庸は隠居した正誠の干渉をうけながらも果敢に挑戦し、困難の克服に努めた。
彼は就任早々、財政難克服のために、家臣からの大幅な「借上」を実施し、地方知行を蔵米制(給料を領地の代わりに米を支給する事)に改め、更に正徳2・3年(1711・1712)、大規模な地方改めを断行し、これに基づいて地方帳の大整理を行い(「正徳の地方帳」作成)年貢増徴の改革策をたてた。同3年には、新庄藩政において最も基本的な農民法令(「正徳の条々」)を発布し、藩政の改革を図った。
また、享保7年(1722)には借財に苦しむ農民・町人の救済をはかる一種の棄捐令ともいうべき法令を発し、民心の取りまとめをはかった。
しかし、彼のこのような努力にもかかわらず、藩財政の改善は進まなかった。正庸の代はまだしも、四代正勝、五代正諶の代に至ると、凶作・飢饉が相次ぎ、藩財政の危機はいよいよ深刻化する。
正庸の治世は28ヵ年の長きに及んだ。隠居の2年後、彼は常盤丁別邸で没した。享年77歳。
菩提寺瑞雲院に葬られた。新庄瑞雲院における正庸の墓は第2号棟に葬られている。
四代 正勝(まさよし)(藩主在籍8年または9年)元文2(3年説もあり)~延享2年(1737(1738)~1745年)
四代正勝は享保7年(1722)三代正庸の三男として新庄に生まれた。幼名を六三郎という。
正庸には長男弥五郎、二男彦四郎の二人がいたが、ともに早世したので、三男の彼が家督を継ぐこととなった。もっとも、これより前、正庸は鳥居家から正成を養子に迎えて跡を継がせる低意だったが、正成が享保20年(1735)に亡くなったので正勝が継ぐことになった。
正勝の治世はわずか8年で、この間時代を画するような事件はない。
延享2年(1745)8月13日、江戸滞在中の正勝は突如大病を発し危篤になる。家臣らは急遽彼の弟正諶の養子願いを幕府に届け出、その許可を得た。
同日、正勝死去。遺骸は三田常林寺に葬られた。24歳であった(幕府への届け出は27歳とある)。
新庄瑞雲院における正勝の墓は第3号棟に葬られている。
五代 正諶(まさのぶ)(藩主在籍20年)延享2年~明和2年(1745~1765年)
五代藩主正諶は、享保7年(1722)、三代藩主正庸の四男(四代藩主正勝
の異母弟)として新庄に生まれた。幼名を猪之七郎。
彼の治世は延享2年(1745)から明和2年(1765)までの20ヶ年で比較的長期であった。
この間宝暦5年(1755)の未曽有の大飢饉をはじめ、同3年の新庄大火(家中屋敷、町屋敷997軒消失)、同7年の最上川大洪水(三丈一尺余の増水―9mを超える増水、沿岸一帯約400戸の流失)などの天変地変に襲われ、この対策に追われた時代であった。
中でも宝暦5年の大飢饉は、今でも「亥年の飢渇」として伝えられるほどの冷害による大凶作で、領内に多くの餓死者を出し、廃絶する村落も少なくなかった。
正諶は領民救済のために幕府から米3千俵を拝借し領民の手当米とした。(許可されるも藩主は施政の責任を問われ、約2か月差控(外出禁止)を命じられる。)
また、藩士への禄米給与を「飯米渡し」とし、節減を図った(禄高の高下に関わらず、家族含め一日一人五合の飯米を給付する)。
また、度重ねて倹約令を発して財政の改善を図ったが、前代からの財政ひっ迫に加えて凶作・飢饉による歳入減などが災いし、藩政の退勢を立て直すことができなかった。
このころを境に農民の離村が多くなり、領内人口の減退も問題になった。
藩権力に対する農民の抵抗も激化しはじめ、藩は対策を急がなければならなかった。正諶は農民に厳しい離村禁止令出す一方、宝暦元年(1751)には御手許金を下して「赤子無尽の制」を定め、領内人口の維持・増加をはかったが、その効を見ることなく明和2年(1765)9月、大病を発し、江戸藩邸で没した。享年44歳。
遺骸は三田常林寺に葬られた。
新庄瑞雲院における彼の墓は第5号棟に葬られている。
正諶は民衆に厳しい姿勢を見せただけではない。
現在新庄の夏を彩る新庄まつりは、宝暦5年(1755)の大飢饉によって打ちひしがれた領民を励ますために正諶が領民に呼び掛けて翌宝暦6年(1756)に始めさせた新祭りで、飢饉の犠牲者を弔い今年の豊作を祈る世直しの祭りであった。
六代 正産(まさただ)(藩主在籍15年)明和2年~安永9年(1765~1780年)
新庄六代藩主正産は五代藩主正諶の嫡男として、宝暦10年(1760)江戸に生まれた。幼名を孝次郎という。
明和2年(1765)9月、父正諶死去の跡を受けて遺領を相続した。未だ5歳の幼少だったので、家臣が江戸へ行き幕命を賜った。
正産の治世は安永9年(1780)までの15年間。この間の最大の課題はいよいよ深刻化してきた藩財政の危機を如何に食い止め、かつ如何に再生を期するかにあった。
このために彼がとった改革策は安永4年(1775)に始まる領内全域にわたる土地改めである。
これは「正徳の土地改め」に次ぐ耕地の改めで、農地の実態を正確に把握し、年貢増徴をはかろうとするものであった。
次いで安永6年(1777)には農民に対する包括的な倹約令や離村禁止令、赤子養育令を厳達する「安永の藩政改革」ともいうべき改革が断行された。
この諸改革は、家老北条六右衛門によるものというのがふさわしい。
安永9年(1780)、彼は松平讃岐守の妹を正妻に迎えたが、同年10月3日新庄にて病死(幕府への届は同月7日)。21歳の若さであった。
遺骸は菩提寺瑞雲院に葬られた(戸沢家墓所第4号棟)。
七代 正良(まさすけ)(藩主在籍6年)安永9年~天明6年(1780~1786年)
七代藩主戸沢正良は、六代藩主正産の弟として、江戸藩邸に生まれた。
生年月日は正確には判らないが、宝暦12年(1762)と考えられる。幼名を楢岡豊三郎、後に戸沢左京を名のる。正産には子がなかったようである。
正良の家督相続は、兄正産の死が急(安永9年10月3日)であったために、あわただしかった(10月8日正良養子願い提出、同月13日死亡届提出、12月7日家督相続許可)。
天明元年(1781)、播州姫路城主酒井雅楽守の妹を正室に迎えた。
彼の治世は安永9年(1780)から天明6年(1786)までのわずか6年だが、その後半期において、天明3・4年(1783・1784年)と連続して大飢饉に襲われた。
この飢饉は宝暦年間に起きた「宝五の飢渇」と相並ぶ大飢饉で、年貢収納高は極端に減少し、藩は領内外の御用商人から多額の借金を仰ぎ、ようやく急場を凌ぐ有様であった。
借金の返済に苦しみ、藩要路のものが御用商人から幕府に訴えられる事件も起こった。こうした危機に対し、藩は厳しい倹約令を発して事態の収拾をはかるが、根本的な改革策は立て得ずして終わった。
天明6年(1786)8月10日、新庄において死去。享年25歳。
遺骸は菩提寺瑞雲院に葬られた(戸沢家墓所第5号棟)。
八代 正親(まさちか)(藩主在籍10年)天明6年~寛政8年(1786~1796年)
八代藩主正親の治世も天明6年(1786)から寛政8年(1796)までの10年である。
この時代も引き続く財政難で、藩政は困難の度を深めるが、後世に残るような深刻な天変地異はなく、比較的平穏な時代であった。
正親は、宝暦7年(1757)3月、五代藩主正諶の弟正備の長男として江戸に生まれた。幼名を亀松・造酒・城之進という。
七代目に子がなかったので、彼は死の直前、甥の正親を養子にすることを幕府に願い出て許可を得ていた。天明6年10月正親は家督相続した。
天明8年(1788)、松平近江守長員の養女(実は松平安芸守娘(浅野長喬)・宝珠院)を正室に迎えたが、彼女は寛政2年(1790)に死去したので、同年4月、彦根藩主の妹を正室とした。
寛政元年(1789)、彼は養老の典を行い、領内の70歳以上の老人を城中に招き酒食を饗した。
同3年(1791)幕府の倹約令に模した「条々」を領内に布達、翌4年、伊勢神宮・善行寺参りを口実とする離村禁止を触れ出す。この翌年、領内旅行規則、城下の日市規制の御触書を布達した。
寛政8年(1798)9月、新庄にて死去。享年40歳。瑞雲院に葬られた(戸沢家墓所6号棟)
戸沢正胤公花押入り書状(市指定文化財)
九代 正胤(まさつぐ) (藩主在籍44年)
寛政8年~天保11年(1796~1840年)
九代藩主正胤の治世は、寛政8年(1796)から天保11年(1840。この年に隠居)まで、44年の長期に及びます。しかも、彼は隠居後も幼少の十一代正実の後見役を務め、安政5年(1858)、67歳で死去するまで活躍しました。
彼の時代は、享和元年(1801)に村山一揆、文化4年(1807)に蝦夷地にロシア船が現れ、同6年(1809)に八柳騒動(家中騒動)、同8年(1811)に川内騒動(村方騒動)が起こるなど、内外ともに不穏な時代でありました。藩財政のひっ迫は極度に達し加えて、天保4年(1833)には、「天下の口を干す」と言われた、藩政時代を通して最も悲惨な凶作・飢饉に見舞われるなど、まさに危機的様相を呈した時代でありました。
正胤はこの難局を乗り切るために、家臣、領民に極度の倹約、勧農を令する一方、養蚕・織物の先進地から教師を招いて製糸・織物業の振興を行い藩政の立て直しを図った。
天保4年の大飢饉に際しては、急遽幕府に願いを立てて帰国し、わずかの家臣を率いて徒歩で領内隈なく巡察し、領民を鼓舞しました。これが世の評判となり、後に幕府から褒状を賜る。しかしながら、藩財政を改善することはできなかった。
「戸沢家普」によれば、正胤は寛政4年(1792)12月、八代正親の二男として、江戸藩邸に生まれた(長男は早世)。幼名を初め正礼、後に金太郎、冨寿という。寛政8年(1796)11月、年5歳で父の遺領を継ぎ、従五位下に叙された。
天保11年(1840)3月、家督を嫡男正令に譲って隠居、以後は常盤丁別邸を修造、ここに住む。安政5年7月、常盤丁で死去。67歳。遺骸は瑞雲院に葬られた。(戸沢家墓所6号棟)。
十代 正令(まさよし)(藩主在籍4年)天保11年~天保14年(1840~1843年)
十代藩主戸沢正令は、文化10年(1813)1月、九代正胤の三男として、江戸に生まれた。幼名は千代鶴。
天保3年(1832)、薩摩藩主島津重豪の末娘貢子
を正室に迎えた(桃齢院・徳川十三代将軍家定正室篤姫の大叔母にあたる)。
同11年(1840)3月、父・正胤隠居の後をうけて、28歳で家督を継ぎ、持ち前の時代感覚をもって藩政の一大改革を企てるが、家督後、わずか4年にして病に侵され、志空しく天保14年(1843)5月、江戸藩邸に没した。享年31歳。
遺骸は三田常林寺に葬られ、新庄瑞雲院境内戸沢家墓所においては第4号棟に葬られている。
彼の時代は、幕末の激動期に当たる。
彼は英邁にして、激しい気性の持ち主で、敏感に時代の流れをとらえ、藩政の根本的改革を企てた。
彼のこの志は、在位4年にしての死去であったので、藩政上実効を見ることは少なかったが、改革の精神は時代に受け継がれ、家老の吉高勘解由を中心に推進された「嘉永の藩政改革」に活かされた。
なお、彼は歴代藩主の中でも唯一人、和歌・国学にも造詣が深く数多くの著作を残している。
なお、正令公の時代に初代涌井弥兵衛が新庄に来て新庄東山焼を始めている。
十一代 正実(まさざね)(藩主在籍26年)天保14年~明治2年(1843~1869年)
十一代藩主戸沢正実は、天保3年(1832)閏11月、十代正令の嫡男として江戸藩邸に生まれた。母は正令の正室桃齢院である。幼名千代鶴。
彼は、天保14年(1843)7月、12歳で父の遺領を継いだが、まだ幼少ということで、祖父正胤(九代藩主)が後見役となり政務を助けた。
嘉永6年(1853)、黒船来航。幕末の混乱の中、正実は幕命により、文久元年(1861)には神奈川異人宿固めを勤め、同3年には京都警護役を務めた。
また、元治元年(1864)3月、芝薩摩屋敷焼き討ち事件のときは、増上寺警護に当たった。
慶応4年(1868)1月、戊辰戦争が勃発。3月、奥羽鎮撫軍副総督 沢三位の率いる一軍は早くも新庄に入って来た。
一方、東北諸藩は閏4月末、仙台・米沢・庄内諸藩を中心に奥羽(後には越後も)列藩同盟を結んでこれに対抗したが、新庄藩の同盟離脱などもあって同盟軍が破れ、7月、官軍側は新庄を奪回した。
これを怒った庄内軍は大軍を送って新庄城を攻め、たちまち、新庄城を攻略、城下の大部分を焼いた。7月14日夕刻のことである。
藩主正実及びその家族、家臣の大部分は、官軍とともに急遽秋田領に逃れた。
これを追って庄内軍も秋田領に入り、官軍側と各地で激戦を繰り返した。その後、同盟側諸藩が次々と官軍側に降りた。
10月1日、新庄藩主正実は2ヵ月半ぶりに新庄に帰った。城を焼かれた正実は常盤丁別邸に入り、焦土と化した城と町の復興に努め明治2年3月、版籍奉還し新庄藩は終わりを迎えた。
同年6月、御賞典1万5千石を賜り、6月、新庄藩知事に任ぜられた。
明治4年7月、新政府は新庄藩を廃し、新庄県を置いた(11月、山形県に併合。)
その後、彼は明治17年、子爵に叙せられ、同29年、東京で死去した。享年65歳。
遺骸は三田常林寺に葬られたが、新庄瑞雲院戸沢家墓所においては第6号棟に葬られている。
新庄城
新庄城はどのような城だったか?
新庄市史を基にご紹介します。
尾形芦香作 新庄城絵図
幕末期の新庄城を幼いころの記憶を古老の証言で確かめつつ描いた
郷土画家尾形芦香(1858~1946)の作。
戸沢神社境内には新庄城絵図の案内板が
あります。
現在最上公園としては市民の憩いの場となっている、新庄城(鵜沼城・沼田城)は元和9年
(1623)。彼は初め真室城(鮭延城)に入ったが、手狭だったため最上家家臣日野将監の屋敷跡に新庄城を築城しました、縄張りは政盛の義兄山形城主鳥居忠政が行ったといいます。
寛永元年(1624)に工事が始まり、寛永2年(1625)完成しここに入りました。
創建時の新庄城は本丸中央に3層の天守、三隅には隅櫓、表御門・裏御門を備え、二の丸には役所や米蔵、大手門・北御門。三の丸には多くの侍屋敷を有する城であり
戸沢家11代250年に渡りここを拠点としました。
新荘家中屋敷絵図(宝暦年間)
新庄城は戦国・安土桃山時代の城のように戦いのために作られた城ではなく、むしろ政治・経済・交通の要衝にあって、藩主の強大な権力を誇示するためでした。
現在、戸沢神社境内や新庄市街の中にも旧町名表示柱があり城門跡や建物等があった場所に設置しております。
南御門跡(現堀端町)‥‥外曲輪(そとくるわ)東南隅のあった門の跡。南御門は高い石垣を土台とした
櫓門であった。
三の堀跡(現小田島町)‥‥三の堀は吉川町から北本町・南本町を経て宮内丁に流れ、侍町と町人町を境していた。
藩校明倫堂跡(現小田島町)‥‥新庄藩校明倫堂は明和年間に創立。幾多の優秀な人材を育てた。安政5年(1858年)現在の市民プラザ付近に移され、明治4年まで続いた。
町奉行所跡(現小田島町)‥‥城下町の政治や治安を司る役所があった所。現在の市民プラザにあった。今の市役所と警察を合わせた機関。
大手口(現本町)‥‥町人町、北本町・南本町から城へ入る入口。
この入口には番所が置かれ、北側に町奉行所が設置された。大手広丁を通り、二の丸大手門を経て本丸へ入った。
大手広丁(現大手町)‥‥大手御門から南本町(羽州街道)から出る大通り。
天野八右衛門・長野藤兵衛など上級家臣の屋敷があった。
北御門跡(現堀端町)‥‥外曲輪の北側にあった門の跡。北御門は高い石垣を土台とした櫓門であった。
大手御門跡(現堀端町)‥‥外曲輪の正面にあった門の跡。大手御門は高い石垣を土台とした櫓門であった。
御役所跡(現堀端町)‥‥ここには藩内の田畑や年貢・産物・財政を扱う役所があった。
堀端丁(現堀端町)‥‥外曲輪東側の堀に沿う通り。大手門より北を上堀端丁、南を下堀端丁と呼び古くは清水丁、岡崎丁と呼んだ。
御鷹部屋(現堀端町)‥‥新庄藩が幕府に献上するための鷹を飼育する建物があった。
二の堀跡(現堀端町)‥‥二の堀は周りにめぐらされていた堀。この外側は三の曲輪の侍町であった。
武器櫓跡(新庄城址内)‥…この一角に2層の隅櫓がそびえたち、中に槍・鉄砲などの
武器を入れていた。
二の丸跡(新庄城址内)‥‥本丸の南に設けられた廓(くるわ)。廓内に二の丸長屋があった。
表御門跡(新庄城址内)‥‥本丸の正門があった所。
御物見跡(新庄城址内)‥‥ここに場外の様子を伺う建物があった。土塁の上に土塀が
めぐらされていた。
御玄関跡(新庄城址内)‥‥新庄藩庁の正面玄関。この奥に廊下を隔てて、40畳敷の大書院、32畳の御広間などがあった。
その他にも新庄城天守台跡や城内の用水として使った御用水等の案内柱が立っています。
寛文4年(1664年)の新庄城修復願
新庄城は幕末の時代まで大きな変更はなかったようですが、
災害や老朽化により再建している、特に大きく変わった点は天守閣と城門の改築及び土塁の修築です。寛文4年の修復願には5か所の修復をしたいと願いを幕府に出しています。
1. 本丸表門は簡単な冠木門(2本の門柱に横木を乗せた門)で周りに塀も無く城内が丸見えだから周りに土塁を築き、塀を建てて升形(直角に設けられた二つの城門と城壁とで囲まれた四角い空き地。敵の直進をさまたげ,勢いを鈍らせるもの)
にし、櫓を建てたい。
2. 本丸裏門も同じ冠木門で東の方を出入口にしているため出入りに不便であり、
本丸表門と同じように土塁を築き、塀を建て升形にし、櫓を建てて西の方を
出入り口にしたい。
3. 本丸に三ヶ所設けている隅櫓は、単に石の土台の上に建てたもので積雪によって破損する恐れがあり、二段の石垣を組みその上に櫓を建てたい。
4と5 外曲輪の南門の石垣が三か所、北門の石垣が四ヶ所崩れかけている所があり、これを復旧したい。
と幕府に願い許可され、この他に堀の泥を除去・門や石垣・土塁の修復がその都度行われました。
また、新庄城は何度か火災に見舞われたこともあり、特に築城してすぐの寛永13年(1636)の火災は新庄城の三層の天守閣が焼失。再建されることはありませんでした。
しかし戊辰戦争にて、本丸内の武器櫓・大納戸櫓を残し焼失しました。(武器櫓、大納戸櫓は後に取り壊されました。)
時代は明治になり版籍奉還・廃藩置県により新庄藩は終焉し、
跡地は新庄学校・勧業試験場・招魂社、郡会議事堂などの敷地として利用されました。
明治27年(1894)本丸跡に戸沢氏始祖戸沢衡盛・新庄藩祖戸沢政盛・最後の新庄藩主戸沢正実を祀る戸沢神社が創立されます。