郷土への愛着と誇りを高め新たなまちづくりへ
~新庄開府400年の歴史に学ぶ~

出典:シリーズ藩物語「新庄藩」大友義助著

第1回 羽州新庄藩の前史

藩域の大部分が山地に属し、全国的にも顕著な豪雪地帯であった羽州新庄藩。冷害による凶作・飢饉などの苦難に幾度となく襲われた厳しい時代を、どのように乗り越えてきたのでしょうか。その歴史に触れ、学ぶことにより、新庄人の気質や今も変わらない新庄の良さを探っていきます。

 

戦国大名としての成り立ち

新庄藩主・戸沢氏の遠祖は平家の出とされ、はじめは大和国(現・奈良県)に居を構えました。鎌倉時代、源頼朝によって陸奥国磐手郡滴石(雫石)に移され、以後は戸沢氏と称したと伝えられています。
建保6(1218)年、出羽国山本郡門屋(秋田県仙北市)に移り、その後、北浦庄角館(仙北市)に移って勢力を伸ばしました。
戦国時代末期、戸沢氏は早くから中央の権力者である織田信長・豊臣秀吉と交流することで4万5千石の大名となり、秀吉の死後は徳川家康に従いました。
初代新庄藩主・戸沢政盛は、天下分け目の戦いとなった関ヶ原の戦いでの手柄により、幕府が開かれた江戸に近い常陸国(茨城県)茨城・多賀の2郡を慶長7(1602)年に賜り、この地に移ります。慶長11 (1606)年には、多賀郡竜子山城を改修した松岡城に移りました。
政盛の常陸国時代は、元和8(1622)年までの20年間に過ぎません。しかし、戦国時代から近世という新しい時代への転換期に当たり、当然、戸沢氏も農民把握などの領内支配において、従来とは異なる根本的な改革を強いられたと考えられます。
また、常陸国時代に新たに召し抱えた家臣の多くは、戸沢氏が羽州新庄へと領地を移された後に藩の要職に就き、藩政の中枢を担うことになります。

 

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▲常陸国での石高を示す「御知行之覚」
(茨城郡7千石、多賀郡3万3千石)/慶長7(1602)年

 

政盛の思慮・思索

慶長15(1610)年、政盛は磐城平(福島県)城主・鳥居忠政の妹を正室に迎え、徳川家との縁を深くします。彼女は後に「真室御前」と呼ばれ、政盛が羽州新庄に領地を移された後に真室城(最上郡真室川)で死去しますが、政盛は生涯彼女を大切にしました。
政盛の鳥居家に対する配慮は特別に深いものがあり、子どもが居なかった真室御前に対して側室には男児がいたものの、鳥居忠政の二男・定盛を跡継ぎに迎えます。鳥居家は、徳川家にとっては松平時代以来の忠臣です。
特に、忠政の父・元忠は、関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城の戦いで石田三成の軍勢を食い止めた、徳川家の恩人とも言える人物です。
このように、政盛の生涯は戦国時代の転換期において、いかにして戸沢家の安泰を図るかの努力の一生であったということができます。


第2回 藩政の礎を築く

今回は、現在のまちづくりの基礎となった新庄城の築城と、城下町整備の歴史について学びます。
 

新庄領を賜り、藩政の象徴「城」を築く

元和8(1622)年、新庄藩祖・戸沢政盛は、江戸幕府の命により常陸(ひたちの)(くに)(茨城県)松岡から羽州新庄藩(石高6万石、最上地方一帯と村山郡の一部)に領地を移されます。これは、出羽国(山形県と秋田県の範囲)中央部の山形周辺を領地としていた最上氏が、藩内の主導権争いにより幕府から領地を没収されたことを受けて、徳川家第一の忠臣である、鳥居氏(山形城22万石)や酒井氏(鶴岡城14万石)などと並び、未だ幕府に心服していない奥羽の諸大名の監視やけん制の役目を負ったためと考えられます。
政盛は従来より、最上家の武将である日野氏が居を構えていた新庄城を、将来的な本拠と定めていました。しかし、当時の城は6万石であり、大名の居城としては小規模であったため、現在の戸澤神社周辺に新たな土地を区画して、これを本丸としました。
さらに、その周りに土塁と堀を巡らし、3つの隅には二層の(すみ)(やぐら)を、本丸中央部には三層の天守閣を設けました。なお、この天守閣は寛永13(1636)年の火災で焼失してしまいました。
また、現在の最上公園近辺に、本丸を取り囲む形で、二の丸・三の丸を区画し、侍町として家臣団を居住させました。

 

城下町を整備し、城下の繁栄を期す

城下町(町人町)の建設においては、鳥越村から萩野村・仁田山村を通り、金山へと続いていた羽州街道を、鳥越村北端から西に延長しました。
さらに、新庄城を東から北へと取り囲む形で延長し、この両側に町人町を区画。金沢町・鉄砲町・落合町・馬喰町・五日町(後の南本町)・十日町(後の北本町)などがこれに当たります。特に、五日町・十日町は城下随一の繁華街であり、有力御用商人が軒を並べていました。
羽州街道をはじめ、市中の道路は至るところで鉤かぎ形に曲折されています。その隅々の要所には、寺院・神社・修験などを配置して、万が一の場合の防衛拠点としました。特に、羽州街道の南北の出入口には足軽町を区画。
上金沢の円応寺・接引寺・松巖寺、太田の瑞雲院・会林寺・英照院といった寺院を集中的に配置し、敵の進攻に対する備えとしました。
また、城下を見下ろす四方の丘の上には、城下の災いを鎮めるため、山屋の薬師堂や下西山の愛宕社、鳥越山の八幡宮などの寺院・神社が配置されました。
こうしてみると、政盛の城下町建設構想は、かなり壮大であったことがうかがえます。 

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第3回 藩財政の確立

今回は、当時の藩政を支えた財政基盤が、どのように確立されていったかを学びます。
 


年貢米・その他物産の上方移出

徳川家康によって江戸幕府が成立し、久方ぶりに平和を取り戻しました。さらに、急速に全国的な流通網が整備され、全国規模の市場が形成され始めました。当時、各地に配置された大名にとっては「いかに早く自国の経済を上方に結び付け、年貢米や他の物産を大阪市場に移出し、有利に換金し得るか」という点が、藩財政の成否に関わる重大事項でした。
初代藩主政盛は、新庄に入部すると同時に廻かい船を建造しました。新田・鉱山開発、その他の産業振興を行うことで、領内の生産量を増強させ、最上川と日本海を経由して、京都・大阪の上方市場に移出しようと考えたのです。結果として莫大な利益を得ることができ、藩の財政基盤が確立されました。

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▲亥ノ物成払方覚(井関家文書)
元和9(1623) 年に、政盛が上方での年貢米の売却について指示をした

 

新田・鉱山開発による領内生産力の増強

領内の大規模な新田・鉱山開発は、領内の生産力を増強し、莫大な利益をもたらす、藩財政最大の基礎となるものでした。
新庄藩において、最も大規模な新田開発が、指首野・塩野の開発です。指首野・塩野は、新庄の北部から金山町までを流れる泉田川によって形成された、扇状地の扇央部に当たります。そのため、昔から水の便が悪く、ほとんどが原野のまま残されていました。
初代藩主政盛は、小国郷(最上町)の農民を移し、この地を横断する羽州街道の両側に家屋敷を与えて住まわせ、開拓の拠点としました。後に、これが発展して泉田村となりました。さらに、新田の用水として、上流部の吉沢村に二つの堤(ため池)を築きました。
鉱山の開発としては、谷口銀山(金山町)と永松銅山(大蔵村)の開発が注目されます。ともに、一帯を最上氏が治めていた時に開発されました。政盛はこれらに大規模な工事を施し、飛躍的に産出量を向上させました。
谷口銀山は活気にあふれ、同山の銀で新庄城の(すみ)(やぐら)を築いたとされる史料もあり、新庄藩のドル箱と目されたことは確かです。
永松銅山の開発の成果は、二代藩主正誠以降に現れました。
元禄16(1703)年の幕府への報告書を見ると、粗銅ではありながら、全国第三位の産出量と記載されています。

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