楯岡(村山市)生まれ。
明治40年、都新聞政治部記者として入社後、大正8年同社副社長となる。
翌年、栃木県より立候補して衆議院議員に当選。同14年には山形県より立候補し再選された。
明治15年、雪国の乳児死亡率の高さに気付いて雪害運動を始め、昭和3年に新庄町で演説会を開き、第一声とした。
昭和5年、雪害建白書を首相以下4,000名に配布。山形県町村会では請願を両院に提出して採択され、雪害が法的に確認された。
昭和8年、氏の尽力のもと、積雪の苦に加えて繰り返す凶作のため疲弊する農村経済を更生させるため、調査・研究・指導を目的とした全国唯一の役所として積雪地方農村経済調査所が、農林省の出先機関として設置された。
国会で演説する松岡俊三
積雪地方農村経済調査所(通称「雪害」、「雪調」)庁舎
【参考資料】
最上地域史研究会編 最上地域史第十号最上人物事典
新庄市役所HP 松岡俊三と雪害救済運動より。
漢学者・教育者 1818~1902年
隠明寺凧創作者 1844~1915年
馬産振興者 1849~1936年
教育者 1854~1893年
政治家 1859~1924年
海外貿易の実業家 1873~1938年
洋風建築家 1877~1919年
教育者 1880~1955年
陸軍軍人・政治家 1880~1950年
代議士 1880~1950年
造園家 1881~1966年
郷土史家・思想家 1881~1927年
日本画家 1888~1980年
日本画家 1858~1946年
蚕糸研究者 1888~1984年
国際的柔道家 1898~1974年
能面師 1900~1964年
農業活動家 1909~1943年
日本画家 1826~1891年