鳥越八幡神社本殿・拝殿
鳥越八幡神社は、新庄藩初代藩主戸沢政盛の養子定盛が寛永15年(1638)に造営、この地方では最も古い建物の一つです。
元々は別の所に八幡神社がありましたが、定盛が鷹狩りの際自慢の鷹が逃げてしまい、八幡神社を参拝し八幡の神によって鷹が無事に定盛の所へ戻ったと言います。そのお礼として、城下が一望できる鳥越の高台に新しい立派な神社を建てたのが始まりと言われています。
本殿は三間四面の流れ造りとなっており、本殿左右側には鬼面と力士の彫刻と戸沢家の家紋である「丸に九曜紋」と「鶴丸紋」が描かれています。
本殿の彫刻は当初赤い顔料や黒漆で彩られました。現在では風化により色が落ちてしまいましたが、右側側面の鬼面・力士の彫刻や壁の黒漆の跡など本殿が鮮やかな色に彩られていたのが分かる部分も見受けられます。
拝殿は少し遅れて元禄4年(1691)2代藩主正誠の時代に創建されました。拝殿は本殿とは対照的に素木造り(木材に色を付けず自然の状態作られた建物の事)で拝殿内には数多くの絵馬が奉納されており、享保6年(1721)に3代藩主戸沢正庸の養子正成が奉納した大絵馬が残っています。
また、鳥越八幡神社境内には七所明神の左手を祀る神社や鳥越地区の農業活動家松田甚次郎の土舞台が残っています。
鳥越八幡神社参道
松に白鳩図(新庄市内で最古かつ最大、元禄7年(1694年)
正月に3代藩主戸沢正庸が奉納したもの。
過去の調査により狩野休山筆と判明している。(現在は判読できない)
新庄藩主戸沢家墓所
11代に渡り最上地方を治めていた戸沢家の墓所が太田の瑞雲院に6棟、上西山の桂嶽寺に1棟あります。2ヶ所共に通称「御霊屋」と呼ばれます。
いずれも江戸時代の創建の総ヒノキ作りで扉は観音開き、床は石畳となっています。
屋根は瑞雲院は茅葺きで桂嶽寺は近年木羽葺きに替えられました。
内部は
一号棟には、初代政盛・定盛(政盛養子)・政盛の側室
二号棟には、3代正庸・5代正諶・5代正諶正室(於カノ)
三号棟には、4代正勝・4代正勝正室(於市)・正成(三代正庸養子)・須和子(二代正誠三女)正備(戸沢正親父)・9代正胤正室(於以代または伊與子)・信之助(九代正胤八男)・8代正親正室
四号棟には、6代正産・10代正令
五号棟には、9代正胤八女(於貞)・7代正良・7代正良正室(7代正良と同じ石塔に葬られている)正紀(9代正胤6男)
六号棟には、8代正親・8代正親後室(於政)・9代正胤・道乃進(9代正胤長男)・11代正実・戸沢家累代之墓・地蔵・正修
七号棟(桂嶽寺)には、2代正誠
が葬られています。
また、2代目正誠だけが桂嶽寺に葬られているのは、息子政武が早世したため太田の万年寺に葬られた後に万年寺が桂嶽寺に改称し西山に移り、政武の墓も西山に移動し現在に至ります。
また、正誠の棺中から政武の描いた一枚の絵が見つかりその絵を持ち続けていたという事はいかに政武を愛していたかをうかがわせ、自身の廟所を桂嶽寺にし、御霊屋の下には息子政武を始め2代正誠の末娘虎子、3代正庸の次男彦四郎の戸沢家一族の墓があり、御霊屋を初め戸沢家ゆかりの建造物には戸沢家の九曜紋と戸の字の紋が刻まれています。
初代政盛らが眠る一号棟とその内部
二号棟の九曜紋と戸の字紋
天満神社
天満神社は元来、藩主戸沢氏の氏神として仙北(秋田県)門屋城在住時代から厚く信仰されており、新庄に移封した際、城内に社殿を新築し祀りました。
天満神社に伝わる棟札によると、新庄天満宮が創建されたのは寛永5年(1628年)新庄城とほぼ同じ時期に建てられたと考えられます。
尚、現在の社殿は寛文8年(1668)再建と考えられており、その後天満神社は領内総鎮守とされ、大祭には各村の庄屋も召集されました。しかし、城内本丸に鎮座しているため領民一般は参詣が許されていなかったため、延宝8年(1660)城下吉川町に分祀されるかたちで、町人の参詣が許されました。
現在夏の風物詩となっている新庄まつりは、天満神社の祭典で宝暦6年(1756)5代目正諶の藩主の時代に始まりました。
新庄天満宮
羽陽仙北伝記
「羽陽仙北伝記」は戸沢氏の始祖平衡盛以来の歴史をまとめた本で目録も含め25巻からになっています。
この本は三代正庸の時代、享保3年(1718)家臣松沢宗右衛門光行が編纂しまとめ、その後元文5年(1740年)信夫忠右衛門和通が戸沢家の正史としたもので、平家の根源や奥州雫石時代、仙北地方時代の武功などを記しており、戸沢家の由緒を記した書物になってます。
紙本著色新庄藩内絵図
新庄藩領内絵図は新庄藩の領地を克明に記したもので江戸中期、藩主が絵師に命じ製作、藩主が江戸藩邸において、常に傍らに置き、民政の資料として利用したといいます。
絵図は3隻からなり、とても大きいもので、城内や町、村の様子が詳しく描かれています。
戸沢家馬標三階笠
戸沢家の馬標は469.5cmの鉄の石突きを付けた竹竿に3つの大きな笠を取りつけたものです。
初代藩主政盛の父戸沢盛安が、天正18年(1590)秀吉の小田原征伐の際、一番乗りの功名を立てた際本陣の秀吉に知らせるために、思い付きで足軽の笠を3枚槍にさして振ったという由来がありその後、戸沢家の馬標として正式に制定されました。
戊辰戦争時、秋田領に落ち延びる際に泉田八幡神社に預けられたものと伝えられています。
この三階笠の由来は過去に新庄祭りの風流としても使われ、平成5年に横町・下馬場町若連が「戸澤藩馬標三階笠の由来」という風流の山車を出しています。
新庄藩十一代藩主戸沢正実筆 明倫堂
新庄藩の藩校明倫堂は藩士の子弟の学問所として、家老北条六右衛門、儒学者三浦龍山によって七代藩主正良の時代に始まり、初めは特に名称はなく学校や講堂と呼ばれていましたが11代正実の時代に中国の書、中庸から取った「人の道を明らかにし身に着ける」という意味でこの掛軸を講堂に掲げました。
現在はその当時を物語るものはなく、旧明倫堂跡地の表示柱があるのみですが、新庄市内の学区明倫学区はこの明倫堂から名前を取りました。
芭蕉の句碑と柳の清水跡
新庄は松尾芭蕉の足跡を辿る事が出来る町でもあります。
松尾芭蕉は藩主正誠の時代、元禄2年(1689)に尾花沢から山寺を訪ね、大石田を経て羽黒山へ至る道中新庄を訪れました。
その中で芭蕉は澁谷甚兵衛(風流)・九郎兵衛(盛信)兄弟ら地元の俳人たちと交流を深めました。
初めは、最上川を下って大石田より羽黒山へ向かう予定でしたが、尾花沢にて甚兵衛の招きで新庄を訪れる事になります。
その新庄に入る道すがら柳の清水を訪ね「水のおく氷室尋ぬる柳かな」の句を残しました。
2日目には、風流の兄盛信の邸宅盛信亭(現山形銀行新庄支店)にて芭蕉・曽良・風流・盛信の子仁兵衛(俳号を塘夕または柳風)ら7人の俳人達が句会を行い、芭蕉と曽良は筋向いの風流の邸宅風流亭にて2泊しました。
風流亭では「水のおく…」の句を三つ物(連句の発句・脇句・第三を言う)の発句としてまとめ、盛信亭では「風の香も南に近し最上川」と詠んでいます。
芭蕉一行は風流亭を発った後、本合海を通って羽黒山へと向かいました。