明和2年(1765)戸沢正産(まさただ)が家督を継ぎ、5歳で六代藩主となる。
明和7年に建てられた餓死者供養碑
後ろの丸仏は文化13年に作られた
明和7年(1770)角沢街道に、松本村の有志が餓死者供養碑を造立する。
安永の改革を推し進めた家老北条六右衛門の肖像改革の他に彼は藩士の学問にも力を注ぎ、石名坂村(現在の鮭川村の農民の子(後の三浦寛右衛門、明倫堂の講師となる)を江戸に学ばせ、後の明倫堂の基礎を作った。
安永6年(1777)戸沢正産、家中・領内に包括的な倹約令を布達。「安永の改革」を家老北条六右衛門が推進。
安永9年(1780)戸沢正産、新庄にて病没(21歳)、瑞雲院に葬られる。