北条巻蔵(ほうじょうけんぞう)

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教育者  安政元年(1854年)から明治26年(1893年)

新庄生まれ。
7歳のときから藩校に学ぶ。明治6年東京師範学校に入学し、明治9年鹿児島師範学校に赴任。当時の鹿児島は西南戦争の直前であり、翌年帰郷するが、このとき西郷軍の関係者と疑われ、8カ月投獄される。西郷の密書を託されたとも言われている。

西郷家と巻蔵

明治11年に山形県の教職に就くが、すぐ退職して鹿児島に向かい、西郷隆盛の遺児の教育にあたっている。3年後帰郷し、最上中学校に勤務。最上高等小学校が設立されると校長となった。

 

鹿児島から帰郷する際にこのような逸話がある。
西南戦争真っ只中、北条巻蔵に大山綱吉鹿児島県令(現在の県知事)を介し西郷隆盛の旧庄内藩士宛ての密書を依頼されたという。密書を襟に縫い付け新庄に帰ったが、道中福岡にて西郷軍の関係者と思われ投獄される。その際密書を飲み込み難を逃れ、新庄に帰る事ができたという。
しかし、南置賜郡の2等訓導(くんどう)(訓導は現在の学校教諭)を受け持つも2か月で職を辞する事となり、再び鹿児島へ行きそこで鹿児島師範学校での巻蔵の教師のとしての力を買われ、西郷家より西郷隆盛の遺児、隆盛の長男寅太郎(後に陸軍軍人・貴族院議員・習志野俘虜(ふりょ)​​​​​​​収容所所長)二男(うま)太郎(たろう)​​​​​​​、三男酉三(とりぞう)​​​​​​​​​​​​​​の家庭教師として明治12年の4月より教育に当たり、北条巻蔵の履歴書によると明治14年に西郷家の家庭教師を辞めている。

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北条巻蔵の手紙

明治14年に最上中学校(明治19年に廃校)、教授補(学校運営の中心)として活躍。
明治20年に最上高等小学校長(現県立新庄北高校流れをくむ)兼新庄尋常小学校長(現新庄小学校)になる。
最上高等小学校が廃止され、新庄尋常高等小学校にかわり校長になるなどし新庄の教育界をリードする人物であった。明治26年死去。一説には自刃したともいわれている。

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裁縫専修科の卒業生の集合写真(前列の男性が北条巻蔵)

【参考資料】
新庄市史第4巻
最上地域史研究会編 最上地域史第十号最上人物事典
北上健介著 西郷南洲家の家庭教師北条巻蔵先生の死 より

北條角磨

漢学者・教育者 1818~1902年

隠明寺勇象

隠明寺凧創作者 1844~1915年

金田甲橘

馬産振興者 1849~1936年

北条巻蔵

教育者 1854~1893年

尾形芦香

日本画家 1858~1946年

丸山督

政治家 1859~1924年

堤林数衛

海外貿易の実業家 1873~1938年

駒杵勤治

洋風建築家 1877~1919年

伊藤伝

教育者 1880~1955年

小磯国昭

陸軍軍人・政治家 1880~1950年

松岡俊三

代議士 1880~1950年

折下吉延

造園家 1881~1966年

嶺(常葉)金太郎

郷土史家・思想家 1881~1927年

田口一穂

日本画家 1888~1980年

平塚英吉

蚕糸研究者 1888~1984年

伊藤四男

国際的柔道家 1898~1974年

野川陽山(初代)

能面師 1900~1964年

松田甚次郎

農業活動家 1909~1943年

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