諸説ありますが、南北朝時代に小田島荘、現在の東根市に本拠を構えていた小田島氏が山形最上氏によって圧迫されて、現在の新庄市鳥越に拠点を構え東根の本荘に対して新たな荘園、新庄としたという説があります。
また、古文書で初めて新庄の名が記載されたのは天正9年(1581年)に書かれた山形市にある曽根家文書には「この度、鮭延氏が滅亡した。拙者もかの地の討伐に参加したが、まず、鳥越城を攻め、一人残らず打ち取った。この後『新城之地中楯』まで攻め入って、これを焼き払った。」と書かれています。
同時代の七森雅楽助氏信の書状にも「新城・古口」の文字が見て取れます。当時は新庄を表すのに「新城」の文字を当てており、これが江戸時代初めまで続いたといいます。
なお、元々最上地区は現在の村山郡と最上郡を合わせて最上郡としていましたが、
仁和2年(886年)の「三代実録」には最上郡を最上と村山に分けたとの記録があり当初は現在とは村山地域と最上地域が逆になっていました。
現在のように北の方が最上郡になるのは、江戸の初めであると思われます。
新庄藩主戸沢家の家紋は丸に九曜紋となっています。
九つの丸は星を表し、真ん中が太陽、周りの星が「月、火、水、木、金、土」と空想上の星「羅喉(らご)・計都(けいと)」を表しています。
九曜紋は伊達政宗・石田三成・細川忠興等名だたる武将が九曜紋を使っていました。
その他に非公式な家紋裏門として鶴丸紋、家臣への下賜品、藩の建物に戸の字紋が使われました。
現在の新庄市の人口は3.4525人(令和3年4月1日 住民基本台帳による)
ですが、新庄藩領内の人口は宝永6年(1709年)の記録によると、新庄藩領内の人口は5,3370人でした。
また、藩政時代の人口のピークは2代藩主正誠の時代、元禄16年(1703年)には5.8511人で、これ以降は減少しています。
新庄城下の人口は宝永6年(1709年)の記録では3239人と記録しています。
ごく一部ですが紹介いたします。
徳川家
2代藩主正誠の正室(市姫・高嶽院)の母が3代将軍家光の養女で
市姫の祖母振姫が徳川家康の三女にあたります。
鳥居家
徳川家の重臣。三河武士の鑑と呼ばれ伏見城の戦いで討死した鳥居元忠の娘が戸沢政盛の正室真室御前です。
義兄である鳥居忠政の次男を養子にして戸沢定盛と名乗らせます。
また、鳥居成勝の三男が戸沢正成と名乗り2代藩主正誠の娘の虎子姫と婚約しています。
酒井家
出羽庄内藩主
戊辰戦争時には新庄藩とは敵として戦う事となりますが、庄内藩主9代藩主酒井忠発の娘錦姫が11代藩主戸沢正実の最後の妻となっています。
酒井家(雅楽頭)
伊勢崎藩主を務めた雅楽頭酒井家。
最後の上野伊勢崎(現群馬県伊勢崎市)城主の酒井
忠彰の娘錦子氏が後の新庄市長である戸沢正己の妻となっています。
柳沢家
忠臣蔵にも登場する柳沢吉保(当時の幕府の側用人)の孫娘が5代藩主正諶の正室になっています。
井伊家
徳川家の重臣彦根藩主。
戸沢正親の継室(正室の後釜に来る妻)が井伊直幸
(幕末の大老井伊直弼の祖父)の養女です。
藤井松平家
上山城主。
上山8代城主松平通宝(藩校明新館を設立した藩主)の正室として9代藩主戸沢正胤の娘、秀を迎えています。
なお、宮内の七所明神の絵馬女まくら波図は秀が奉納したものです。
土井家
現在の茨城県古河市を治めていた大名です。
古河藩初代藩主土井利勝は幕府では老中として権力をふるいました。
また、山形にもゆかりのある大名で最上家が家督争いでお取り潰しになった後浪人となった鮭延城主鮭延秀綱の身柄を預け後に召し抱えます。その際秀綱は貰った禄を家臣にあたえ秀綱本人は家臣の家を転々とし余生を過ごします。
秀綱の没後その恩恵に報いるべく家臣たちが鮭延寺を創建しました。
利勝の四男土居利房の流れをくむ、越前国大野藩7代藩主土井利忠の正室として9代藩主正胤の娘お晋を迎えています。
なお、宮内の七所明神にある絵馬、旭に鶴二羽図はお晋が奉納したものです。
島津家
第10代藩主正令の正室桃齢院(貢子)は薩摩藩8代藩主島津重豪
の娘で父は蘭学等の西洋の技術、文化に深い興味を持ち蘭癖大名と言われた大名です。
桃令院は島津重豪の11女として生まれました。
天保3年(1832年)に結婚し、その際に持ち込まれた雛道具や薩摩藩の丸に十字紋が入った什器(日常使う食器)が現存します。
正令が若くして亡くなったため落飾(頭を剃り仏門に入る事)し桃齢院と名乗ります。
その後桃齢院は長男の11代藩主正実を補佐し藩政にも関わったと言い、戊辰戦争の際に新庄藩が勤王(天皇のために忠義を尽くす事)派として薩摩・長州と共に新政府軍として戦い、功績を新政府より賞されたのも桃齢院の影響があったのではないかと思われています。
島津家と戸沢家との関係は明治になっても続き、島津家の一門の当主である島津隼彦の妻に正実の娘よしを迎えました。
なお、桃齢院はドラマにもなった天璋院篤姫の大叔母にあたります。
2代藩主正誠の時代に隆盛を極めた新庄藩でしたが、相撲取りや学者を家臣に採用するなど2代藩主の放漫かつ豪華な文治政治は、藩財政にも深刻なひっ迫を招きました。
また、従来新庄藩の財源であった金山の谷口銀山の鉱脈が尽き果ててしまうのも財政難の一因でした。
藩としては、永松銅山の経営主や大坂の商人からの多額の借り入れするな
ど苦境に立たされていました。
3代藩主正庸の時代に土地や農民の把握などの改革を行いましたが、財政難
を食い止めることはできませんでした。
また、家老北条六右衛門による領内一円の田畑の検査・一戸あたり七升ずつ米を村の蔵に貯め非常時に備え、平年は村の困窮した人に低利で貸し付けた「囲籾の制」等の改革を行いましたが一向に改善せず方々の商人から借り入れを行い「戸沢と書くと金気が抜ける」と揶揄されるほど困窮していました。
そして財政難の最大の要因である農村の疲弊により、農村では紙幣経済が押し寄せ、従来通り自給自足が出来なくなってしまい田畑を質に入れたりしますが、年貢は治めることが出来ずに潰れ、都会に流れる問題も発生し藩では農業を進める勧農令・質素倹約をうたった倹約令・離村禁止令等を出しましたが農村部はますます荒廃していきました。
また新庄は度重なる飢饉に見舞われ多数の餓死者を出し飢饉のために一家離散し、現在の大蔵村清水では庄屋が代官に提出した天保4年の報告書には飢饉でつぶれた家は37件・家族138人と記録されています。
その後、江戸後期に藩で嘉永の改革と呼ばれる改革を行われました。
この改革は家老吉高勘解由を中心とした改革で幾度かの藩政改革では最も成功し藩財政はいく分取り戻し、幕末維新の激動の時代へと突入していきます。
吉高勘解由は弘化3年(1846年)に家老に就任し、その年の暮れに当時の藩主正胤の名で改革の号令が出され、同時に藩士の給料を安永の改革時、飯米渡しの制(給料の高低にかかわらず家族分の米を渡す)だったのを、来年から給料に関わらず家族を含めた一人一日5合の米を支給する「面扶持の制」に改められました。
また、度重なる倹約令を出し藩士・領民共に厳しい倹約を命じました。
藩士には絹織物の着用禁止・藩士仲間の贈答の禁止・法要・仏事の簡素化(酒は一切禁止)、・家作りの簡素化(板を張った天井の禁止)等の御触れを出し、領民へは衣服は布・木綿に限り、絹織物を用いている者は見つけ次第取り上げる。煙草入れ・笄(髪をかきあげるのに用いる細長い道具)・櫛等のぜいたく品禁止。婚礼・仏事の簡素化・祝儀の振舞の簡素化(一汁一菜に限る)等の御触れを出しました。
嘉永の改革は武器・紙屑・漆の実・鮭・鮎等の領外移出禁止などの領民の商業の統制、藩政機構の改廃が行われ、文政元年(1818年)には国産掛を置きましたが改革によりさらに拡大・徹底されました。
また、現在の舟形町紫山地区の開発も行われ、この嘉永の改革により藩政中期以降減少していた領内人口が増えました。
新庄城は戊辰戦争で落城しほとんどの建物は焼けてしまいました。
また、武器を保管する武器櫓や藩政に使う道具などを管理する大納戸櫓は残ったものの明治時代に廃城令が出され新庄城は廃城になり武器櫓と大納戸櫓も取り壊されました。
現在新庄藩時代から残っているのは最上公園内にある新庄天満宮のみが残るかたちとなっています。
最上公園の記録の所見は明治36年2月28日付の「両羽日日新聞」に、「新庄の新公園」の見出しで天満神社周辺の土地を新たに公園とし目下修築中と報じています。
ただし、この公園は現在のように本丸全体を指しているわけではなく、現在のように本丸全体が公園になるのは大正時代ではないかと考えられます。
大正7年1月23日付の「国民新聞」によると、酒造家岸甚兵衛氏は、旧新庄城に最上郡公園を建設することを熱心に唱え、当時の郡会議長とはかり、戸沢村に試験場が出来れば松本にある農業試験場が不要となりこれを売却し、また、新庄警察署裏の最上産業組合地を売却しこれを資金に充てるとしています。