慶安3年(1650)戸沢正誠(幼名:千代鶴)が家督を継ぎ、二代藩主となる。
万治3年(1660)片岡騒動起こる(藩内で起こったお家騒動。騒動の中心人物家老の片岡理兵衛ら片岡一族は藩の命令により殺害される)
寛文8年(1668)城内天満宮が再建される。
貞享2年(1685)戸沢正誠の嫡子政武江戸にて病没(9歳)、万年寺(太田)に葬られる。(後に西山に万年寺が移り香雲山桂嶽寺となり万年寺跡には後に福聖寺(福昌寺)を建立。)
<市指定文化財>羽州最上郡併村山郡之内戸沢上総介領内絵図
元禄14年(1701)に新庄藩が幕府の命によって幕府に提出したものの控え。
縦264㎝横253㎝とかなり大きなもので、新庄領内の河川・街道・村々が色鮮やかに描かれている。
戸沢政武の墓石(桂嶽寺)
貞享3年(1686)戸沢正誠の嫡子政武死去により、家臣楢岡兵右衛門四男内記(正庸)を養子とする旨願い出て許可される。
元禄2年(1689)松尾芭蕉、門人曽良を伴い来新、風流亭(澁谷甚兵衛宅)に二泊し、盛信亭(澁谷甚兵衛兄 九郎兵衛宅 現山形銀行新庄支店)に招かれる。(歌仙一巻、三物二巻残る)
元禄4年(1691)戸沢正誠、鳥越八幡神社拝殿を造営。
鳥越八幡神社拝殿棟札
(日付けの下に新庄城主戸沢氏政條(まさえだ)と書かれており当時正誠の名乗っていた名前である)
元禄16年(1703)この年の人口58,511人、藩政期を通じて最高になる。
宝永5年(1708)正誠の隠居所・常盤丁別邸完成。
宝永6年(1709)戸沢正誠、譜代に列せられる。(願い出て40年かかる)お礼として将軍と老中間部越前守に在所の馬(小国駒)各一頭を贈る。