新庄藩士の三男として生まれ、嶺家の養子となる。
東京帝国大学卒業後、京都帝大の助手となったが、健康を損ね帰郷。
「新庄古老覚書」、「増訂最上郡史」、「明治戊辰戦史」、月刊雑誌「葛麓」の発刊など、郷土の政治や文化、時事問題などをとり上げて紹介、地域住民の啓蒙に努めた。これらは、現在も貴重な郷土資料となっている。
郷土を愛した生き方は、「自分の死後は一握の骨片を指首野川に流してくれ、この川は一生の最も愛した忘れ得ぬ川である」と残した遺言からもうかがえる。
明治14年に宮内町の旧新庄藩士常葉家の三男として生まれた金太郎は、当時栃木足尾警察署長の職にあった、同じく旧新庄藩士嶺家の養子となり、栃木に移り住む。
その後、東京帝大史学科(現東京大学文学部史学科)を卒業。(大学の卒業論文が表紙に伊達政宗ヲ中心トシタル戦国時代・国史学科嶺直貫(嶺金太郎が一時期使っていた名前)と書かれており論文を含めた遺稿・ノートが新庄ふるさと歴史センターに所蔵されている。)京都帝大助手となり歴史学を研究していたが、結核に侵され職を辞し、病気と闘いながら佐渡や下関などの教育機関で勤務していた。
新庄に帰郷してからは、キリスト教の啓蒙・布教と郷土史の研究を目的として、月刊誌「葛麓」を発行。
この月刊誌は、次第に宗教色が薄まり、郷土の政治・経済・時事・文化などが主となっていった。また、病身ながら最上郡内の隅々まで足を運び、その土地の文化や歴史などの研究成果などを発表する場となった。
大正の時代にはいると、世の中は自由主義・民主主義など、個人の権利や人間平等の主張が高まり、すべての国民が選挙権を持つべきだという「普選運動」などの運動が盛んに行なわれるようになってた。いわゆる大正デモクラシーと呼ばれる時代である。
嶺金太郎は、上記の「葛麓」において、町政(当時は新庄町)や郷土の教育・文化の問題に取り組み、人間尊重の立場から人民主権・地方自治について戦闘的な論陣を張る。この意味で、雑誌「葛麓」は地方における大正デモクラシーの典型的表現であり、彼はその第一級の旗手であった。
山形が生んだ唯一の首相である、市出身軍人小磯國昭も盛んに「葛麓」に寄稿しており、国の行く末について嶺金太郎と論争を交えている。
このように、「葛麓」には全国に散らばる郷土の人々の動向なども掲載していたため、多彩な新庄ゆかりの執筆者により、当時の彼らが生きた時代や思想がわかる貴重な郷土資料となった。
葛麓と公開遺言状
前記のように、「葛麓」は嶺金太郎という優れた思想家・編集者により、全国各地の寄稿者を得て、新庄最上で暮らす人も、故郷を出て異郷にある人も、思想の新旧や表現のジャンルを問わずに、故郷を思慕する人々のコミュニティの役割を果たしていた。
大正14年9月発行の「葛麓」(第83号)において、嶺は病状の悪化により編集が不可能となったため、休刊する旨を掲載したが、全国からそれを惜しむ強い要請があったため、続刊となった。
後任は、嶺が推薦する 大正2年から大正11年まで日新尋常高等小学校(現日新小学校)の校長を務め、郷土史家である教育者の中野豊政(文久2年(1862年)から昭和11年(1936年)が担当した。
昭和2年4月に病床のかたわら編集に復帰したが、その3か月後に46歳で没した。
この「葛麓」は、昭和58年に第1号から第105号までを全2巻(葛麓一、葛麓二)にまとめ、新庄市教育委員会より出版されており、市立図書館などでも貸出されている。
また葛麓の他にも「新庄古老覚書」・「新荘藩戊辰戦史」など嶺金太郎関連の書籍が貸出されている。
【参考資料】
新庄市役所HP新庄偉人伝 嶺金太郎
最上地域史研究会編 最上地域史第十号最上人物事典より。
漢学者・教育者 1818~1902年
隠明寺凧創作者 1844~1915年
馬産振興者 1849~1936年
教育者 1854~1893年
政治家 1859~1924年
海外貿易の実業家 1873~1938年
洋風建築家 1877~1919年
教育者 1880~1955年
陸軍軍人・政治家 1880~1950年
代議士 1880~1950年
造園家 1881~1966年
郷土史家・思想家 1881~1927年
日本画家 1888~1980年
日本画家 1858~1946年
蚕糸研究者 1888~1984年
国際的柔道家 1898~1974年
能面師 1900~1964年
農業活動家 1909~1943年
日本画家 1826~1891年