新庄市内には旧町名の由来の表示柱があり現在の町名と旧町名・町名の由来を知ることができます。
また、寛政6年(1794年)に下野明村(現金山町)の正野佐平(号寿永軒)によって書かれた「新庄寿永軒見聞集」にはお国自慢的な書きぶりで城下町を紹介しています。(新庄ふるさと歴史センター蔵 2階歴史民俗資料館にて展示)
旧町名表示柱と新庄寿永軒見聞集を基に由来を一部ご紹介します。
金沢町(現下金沢町・上金沢町)
新庄城下の南入口の町。多くの寺社仏閣が置かれ、裏町には足軽組が配置され、本通には酒屋・茶屋が並んでいた。
鉄砲町(現在も同じ町名)
敵の侵入を防ぐため、鉄砲組を置いたところ。昔は鉄砲の事を持筒と呼んだため持筒町とも呼んだ。
落合町(現大町)
中の川と清水川の合流地点であったことから落合町と呼ぶ。酒屋・漆屋・味噌屋・古金屋が多かった。
現在の大阪屋菓子舗付近が東の端であり中の川橋のたもとに大門があった。
清水川町(現大町)
昔この町の東に流れていた清水川に由来。清水川町では鳥類や魚類を扱う店が多く、店頭に雁・鴨・小鳥の類、鯛・鯉・鯨・鰹等の生魚が並び、干物も店に多く並んでいた。
片原町(現宮内町)
山口丁から南に伸びた通り。この町は通りの片側のみに家が並び他は空き地だったのでこの名前が付いたという。
宮内丁(現宮内町)
七所明神が祀られているので宮内丁という。昔海藤帯刀という侍が、明神を二枚橋から移しここに祀った。
大山守命の頭部を祀っており、七所明神第一の宮でもあり信仰が深い。
山口丁(現宮内町)
清水川町南端から西へ入り、南に伸びる通り。通りの西側に大場・森・平賀・岡野氏などの侍屋敷があった。
御長柄町(現大町)
長柄(槍の事)の衆が屋敷を構えていた町。御長柄町は古くは清水川町(現大町)にあったが、享保3年(1718)に現在の所へ移された。
南岡崎丁(現宮内町)
南御門から御馬出口に至る通り。黒川・津田・常井氏などの中級家臣の屋敷があった。
御馬出口(現大町)
藩主が馬に乗って御城から馬喰町(羽州街道)に出たところ。
名古屋敷(現大町)
在方から出てきて、侍屋敷に奉公する人々を名子と呼びその人々屋敷があった所。
馬喰町(現大町)
諸国の馬を商う町。
領内の小国駒を始め、秋田・南部・津軽・本荘などの国中の馬が取引され、仙北・越後・関東などの馬喰たちが集まり、売買の際の万雷の手拍子で賑わったという。
紙漉町(現沖の町)
新庄藩お抱えの紙漉き職人が、清水川の清流を利用して紙を漉いた町と伝えられる。藩政時代後半には、侍と町人が入り交じって住む町になった。
沖の町(現在も同じ町名)
昔、この辺は金沢沖と呼ばれ、一面の田んぼであり沖の町の由来は金沢沖から来ている。明治34年、新庄駅が開業すると駅と南本町を結ぶ道路が開かれ、市内随一の商店街になった。
大正町(現小田島町)
明治44年の大火を機に、沖の町の通りを西に伸ばし、御城までの道路が開かれた。大正時代に出来た町であることから大正町と言う。
仲丁(現小田島町)
侍町と町人町の間にある町なので仲丁と呼んだ。上・中・下の三丁に分かれ、古くは山崎丁・村山丁と呼んだ。
鍛冶町(現北町)
沢山の鍛冶屋がおり、侍の刀槍、農民の鍬鎌・山刀・釘・鎹を作っていた。刀鍛冶としては高橋市郎兵衛が有名。
神明丁(現沼田町)
神明宮が祀られている町が由来となっている。二代藩主正誠が城下の鎮守として金山から移した宮である。その前は松本丁と呼ばれた。
茶屋町(現北町)
新庄城下の北の入り口にあたる町。たくさんの茶屋があり、往来の人々が休む所、餅・麺類・酒肴・菓子が名物で、土産物を売買する町である。
吉川町(現万場町)
吉川町は雨具を扱う店が多く、合羽・傘・蓑笠・蓑・油紙・鉄砲長刀の雨鞘等が店先に並んでいた。また石工もいた。また、吉川町には藩主戸沢家の守り神天満宮が鎮座しており(町人は城内天満宮を参拝出来ないため、城内の天満宮を分祀したもの)西はずれの所に大門があった。
万場町(現在も同じ地名)
古くは長町と言う。穀物・野菜・果物を商う店が並び、酢・酒・醤油を扱う店も多かった。この町で織られる織物は京・江戸にも劣らぬ名品で、ここには多くの人々が買いに来る。万の店が軒を並べているので馬場町と言う。
常盤丁(現常葉町)
常盤丁は2代藩主正誠の時代、常盤丁別邸が置かれた町で、その後歴代藩主の隠居所となり常盤丁には別邸を守る多くの侍が住んでいた。
横町(現馬場町)
横町は櫛・かんざし・紅・白粉・剃刀などの化粧品を扱う店が多く他にも足袋・木履(下駄類)などを扱う店もある。新庄城下の道は南北の方向が基本だがこの町は東西の方向のため横町と言う。
南本町(現本町)・北本町(現本町)
北本町・南本町合わせて大町とも言う。南本町は元は五日町、北本町は元は十日町と言った。羽州街道に沿って作られた町人町で城下で最も賑やかな町であった。
反物・染物・筆・仏像・武具などなどを商う、多くの豪商が軒を連ねていた。また、内科・外科・眼科の医者もいたと言う。
北本町・南本町それぞれの東側には参勤交代で江戸へ上る際の、秋田久保田藩主佐竹氏が泊まる本陣と、青森弘前藩主津軽氏が泊まる本陣があった。
大正2年の駅前通りと現在の駅前通り
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昭和20年代の北本町通りと現在の北本町通り
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