松田甚次郎(まつだじんじろう)

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妻が織ったホームスパンを着た27・28歳の甚次郎

 

農業活動家  明治42年(1909年)から昭和18年(1943年)


 稲舟村鳥越の旧家の長男として生まれる。 盛岡高等農林学校修了。宮沢賢治を訪ね、「小作人たれ、農村劇をやれ」と諭され、これを生涯の実践課題として取り組み、帰郷してからは最上協働村塾を開き、全国から集う塾生とともに農耕にはげみ、経営の合理化を図った。また、高松宮家から奨励の資金を賜り、鳥越隣保館を建設した。 実践記録「土に叫ぶ」はベストセラーとなって新国劇で上演されたり、「宮沢賢治名作選」を発刊して賢治文学の普及につとめたが、激しい労働と疲労から、わずか35歳で没した。

 

 

生い立ちと出会い

松田甚次郎は明治42年3月3日、市内鳥越の自作兼地主の裕福な農家に長男として生まれた。
日新小学校を卒業後、村山農学校を経て大正15年に盛岡高等農林学校農業別科に進学。それは、宮沢賢治が花巻農学校を退職し羅須地人(らすちじん)協会(賢治が岩手県花巻市に設立した私塾)を設立した年である。
大正15年4月1日岩手日報朝刊に掲載された、羅須地人協会設立に寄せて賢治が語った記事を見た甚次郎は、盛岡高等農林学校卒業間際の昭和2年3月に賢治を初めて訪ねる。その時、甚次郎が賢治から「小作人たれ」、「農村劇をやれ」という二つのことを諭されたと言い伝えられている。

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農村劇の衣装をまとった村人たち

最上共働村塾の設立

村に帰った甚次郎は、父に60アールの田を借り耕作を始めた。同時に、村の青年を集めて鳥越倶楽部を結成し演劇活動を始める。彼らは、鳥越八幡神社に自分たちで土舞台を築き、36回もの上演を行った。

また、甚次郎は、農業恐慌により疲弊していく村の生活を守るために、自給自足的農業経営を実践、村に消費組合などを組織するとともに、禁酒や婦人の地位向上運動などに力を注いだ。
衣類や味噌などの食品の自製、缶詰加工など、自給自足を基本に置いたこれらの活動は当時あまりにも型破りであったため、一部の人々には左翼的危険思想の持ち主と疑われた。

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最上共同村塾の塾生たちと甚次郎

その一方で、彼の活動を知った青年たちが全国各地から集まる。
昭和7年、鳥越の南にあった古い小屋を借りて塾舎とし、最上共働村塾と名付けられた。そこには多くの住民がお互いの役割と責任を認め合い、相互関係を深めながら「共に働く・行動する」関係を築いていくという意味が「共働」には込められている。
塾生は朝4時には起床し、午前は農村や社会、政治の問題・農業経営・青年教育などの研究会、午後は畑仕事や堆肥作りを行い、夜は村塾の趣旨やその経営・行事などを論じ合った。

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甚次郎が村人と共に作った鳥越隣保館

「鳥越隣保館」の設立

昭和8年、甚次郎は有栖川宮記念厚生資金を授与される。すると、それまでの彼に対する見方も一変していく。
そして、この資金をもとに、村人の協力を得て「鳥越隣保館」を建設し、農繁期託児所を開いた。他にも共同浴場の開設、鳥越出産扶助会を結成するなどの活動を展開した。

このころから、甚次郎の実践は全国の人々から注目され、多くの見学者が訪れるようになる。また、その活動は、多くの新聞・雑誌によって紹介され、講演や講習会の講師依頼が相次いだ。
郡内はもちろん、庄内・村山地方、また県外は新潟・秋田・丹後あたりからも講演を求めら多忙を極めたが、疲れた体に鞭打って出かけ、熱弁を振るった。

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実践記録「土に叫ぶ」

実践記録「土に叫ぶ」出版

昭和13年甚次郎は、当時衆議院議員だった羽田武嗣郎(ぶしろう)(羽田孜元首相の父)の強い勧めにより、過去10年間の実践記録「土に叫ぶ」を刊行。すると、全国の青年層から熱烈に歓迎され、たちまちベストセラーとなった。
その後「土に叫ぶ」が東京有楽座で新国劇として上演されたこともあり甚次郎の名は全国に知れわたり、農民の鑑と高く評価されていく。
次いで翌年、師・宮沢賢治の作品集「宮沢賢治名作選」を出版し、賢治の文学や思想を広く人々に知らしめるきっかけとなった。

突然の死

昭和18年は史上まれにみる干ばつの年であった。
甚次郎は多忙を極める毎日を送っていたが、村では神仏の力に頼るより他なしとこぞって新田川の水源、八森山に雨乞いに登った。
こういった連日の過労に続く、無理な登山は甚次郎の体力を奪っていき、かろうじて帰宅したものの、病に倒れ入院することとなる。病は癒えることなく、8月に35歳の若さで土に帰っていった。


辞世の句 「冬寒く雪降る奥羽の山里に道を求めてここに十八年」

この辞世の句は鳥越八幡神社境内にある甚次郎の胸像の下に刻まれている。
「熱い新庄人」松田甚次郎。彼が心身を砕いて挑戦した農村振興の試みは現在においても、色褪せない。
目の前の難局を乗り越え、果敢な挑戦を続けた彼の生き方は、今の時代にこそ学ぶべきなのかもしれない。

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鳥越八幡神社境内に残る土舞台

北條角磨

漢学者・教育者 1818~1902年

隠明寺勇象

隠明寺凧創作者 1844~1915年

金田甲橘

馬産振興者 1849~1936年

北条巻蔵

教育者 1854~1893年

丸山督

政治家 1859~1924年

堤林数衛

海外貿易の実業家 1873~1938年

駒杵勤治

洋風建築家 1877~1919年

伊藤伝

教育者 1880~1955年

小磯国昭

陸軍軍人・政治家 1880~1950年

松岡俊三

代議士 1880~1950年

折下吉延

造園家 1881~1966年

嶺(常葉)金太郎

郷土史家・思想家 1881~1927年

田口一穂

日本画家 1888~1980年

尾形芦香

日本画家 1858~1946年

平塚英吉

蚕糸研究者 1888~1984年

伊藤四男

国際的柔道家 1898~1974年

野川陽山(初代)

能面師 1900~1964年

松田甚次郎

農業活動家 1909~1943年

菊川淵斎

日本画家 1826~1891年

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