延享2年(1745)戸沢正諶(まさのぶ)が家督を継ぎ、五代目藩主となる。帝鑑間詰仰せつかる。
宝暦5年(1755)大凶作(翌年「()(どし)飢渇(きかつ)」と呼ばれる大飢饉)

 

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豊年瑞相談
(豊年瑞相記は宝暦5年(1755)の大飢饉の様子や新庄まつりの起源を記録したもので、
作者は清水川町の造り酒屋山城屋太右衛門の次男福井九内富教
写真には豊年瑞相談とあるが、豊年瑞相談は豊年瑞相記の写本である)


宝暦6年(1756)藩は領民を救うため、幕府に米3,000俵拝借を願い、許可されるも藩主は施政の責任を問われ、約2か月差控(外出禁止)を命じられる。
天満宮祭礼始まる。前年からの大飢饉に打ちひしがれた領民を鼓舞するために始まった(新庄祭りの起源)。
藩士の俸禄「飯米渡しの制」(禄高の高下に関わらず、家族含め一日一人五合の飯米を給付する制度)実施。
宝暦11年(1761)藩債の3ヵ年間の支払い停止を命令。
宝暦12年(1762)農村の離村禁止令・倹約令布達。

五代藩主正諶の墓
戸沢正諶の墓石(新庄藩主戸沢家墓所2号棟左側)

明和2年(1765)戸沢正諶、江戸にて病没(44歳)三田常林寺に葬られる。

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